いうて、「スピンオフ」だと思うじゃないですか。外伝というか、番外編というか。刻シリーズを本筋とするなら、それとは別の、いわばサイドストーリーだと思うじゃないですか。
ところがやっぱり甘かったなぁと思ったんですよね。ほんと甘かった。
間違いなくメサイアだった。
っていうかほんと、スピンオフって「明日に向かって乗れ」みたいなやつのことやからな!!!!!!!!!
おかげで、観終わってすぐの私がこちら。
黄昏見終わった、ゲロ吐きそう
— 感謝フレーバーのおさかな (@hotaru_dancer) 2019年2月10日
そしてネタバレに極限まで配慮した感想がこちら。
よく、「傷口に塩を塗る」って言うじゃないですか?
— 感謝フレーバーのおさかな (@hotaru_dancer) 2019年2月10日
あの感覚ってどんなのか知ってますか? 私もよく分からなかったんですけどね、さっき池袋サンシャイン劇場で体感しましたね
ほんま、お察しください。
そういうわけで、ネタバレしかない感想を1回目の観劇後から書き始めて、大千秋楽後も消化しきれないままポチポチしています。まだまだ謎だらけだったり、記憶違いあるかもしれないんですが、アウトプットしないと死んでしまう。おなかいたい。
そういう、ありったけの感想を込めた記事になっております。
ではどうぞ。
(以下は目次からすべてネタバレです)
CAUTION!
この記事は、「MESSIAH トワイライト 黄昏の荒野」を観劇したオタクがネタバレに配慮せず書いています。
いち個人が「こんなふうに思ったんだよね〜」と吐露するように書いている、あくまで感想文です。こうだったからこうかなって思った程度のやつなので、辻褄合わせや考察等の凄いやつではないです。基本的には感情のみで書いていますので、ご了承ください。
ちなみに目次からネタバレです。
「サリュート」
ボスホート所属のサリュート
悠久までを観た段階で、サリュートの祖国への忠誠は一体なにに起因しているんだろう? と考えていました。父親が政治犯として収容された、というくだりから、その父親から受け継いだナショナリズム観でもあるんやろうか~などと考えていたんですが。
蓋を開けてみれば、あの様子。
あの結末に至る行動理念を自分なりにいろいろ考えてみると、ガラの言葉を借りるならまさに「愚か」とも言えるほどの、単純明快な「愛」に起因していたのかなぁと思いました。純粋に、ほんとシンプルに好きなんだろうなあ、って。観終わった後「うわこわ」って声が出ましたけど。
悠久までのサリュートは、確かに国に尽くしているっていう感じでしか見えてなかったんですよね…。まさに、エリートスパイ候補生という感じで。ただ、その中にも間違いなく彼なりの信念があって、それが彼個人のナショナリズムに起因するのかな~?と思ったんですけど、幻夜は愛国心を軸にするとちょっと違和感がありましたし……。何しろ矛盾することをよく言うし、フォークス機関を潰す宣言とかまさに、反旗を翻すことでしかないな、と。
でもそれも、国という家族のためとするなら、違和感なんてないんですよね…。
考えることを放棄して盲信する「国(政治や命令)」のために戦うわけではなく、何が正しいのかを自分の信念に従って考え続け、守るために生き抜いた、そういう精神性。
それは、まったく【スパイ(工作員または暗部の人間)】らしくないなぁって思うんですよね……ただ、私の考えるスパイと、ボスホートのスパイはどうも違うらしいので、その中で彼がエリートであるのも、さもありなんという感じなのかもしれないなぁと思いました。(ボスホートについては後述)
それにしても、あの考え抜く彼の行動理念が「家族」っていうのは、ほんと脱帽でしかない…ほんと驚く…。
ただ、彼が家族(国家)へ向けるそれは、一般的に言う「愛」と同じものなんだろうか? とサリュートに関しては思うところもあって、その理由は劇中から受け取った彼の「家族観」なんですよね…。
彼の家族構成といえば、政治犯として収容されて死んだことになっている父、自分を捨てた生みの父親、廃人同然の母、夢で自分を罵る兄、という、もうほんと何だかなぁというやつじゃないですか。それでも命がけで守ると決めてる家族であるなら、そこには間違いなく愛情的なものはあると思うんですよ。思うんですけど、あまりにも無機質というか、「所属してる」レベルというか。
「家族」または、それに類する「関係性」を他人と築くことに、圧倒的不得手というか、方法知らんのちゃう? という気持ちです。
バベルで父親の死体を確認して回るところとか、「スパイであっても心はある」的な描写としてすげー胸にキたんですけど、その父親を語る口調や台詞は妙に今一歩の情に欠けるというか、踏み込みが甘いというか…。それがまた彼の場合、シニカルとか、冷たいとか、突き放してる?諦めてる?とも違う感じに見えて、不思議だなーって思ってたんですよね。とはいえ、気持ちもないのに探しはしないだろうし……。それはまぁ少なくともスークが気にかけるレベルっていうのもありますし。
だからそこには確かに「家族」へ向ける想いはあると思うんですけど、それにしては「作業」感が否めない…。
この2つを両立させてるサリュートまじで意味わかんねーなってなってたんですけど、それもこれも、まずは「国家とは家族だ」っていう考えこそが彼のアイデンティティの根幹にあるからなのかもなぁ、と黄昏後にぼんやり思いました。
特に、スークが持っていて自分が持っていないもの=家族、と称したように、家族(家族を守る国家)のために行動していながら、彼は家族を持っていないという、その感覚がさぁ…。
いやそれ、どういうことやねん…ってなりません???
私はなったんですけど…。
この時点では「守れない」ことは確定しているものの、一応まだ本来の意味での家族は生存しているわけじゃないですか…。でも「無いもの」と断じてしまう、そして家族を守る国家へ忠誠と命を捧げるという、それは果たしてどういう感覚なの…と。
それってあまりに無機質で、家族やそれに類するものを、あえて言うなら「belong to~」するものって考えてるのかなぁと思ってしまったんですよね。
だからこそ、家族を守る国家なんていう「機能」に対して「家族」と称せてしまうのかなぁとか。または「国家」というものに対して、家族に向けるのと同じだけの思いを向けてしまった結果、情熱的なくせに無機質に見える想いへ変容させてしまったんだろうか、とか。そんなことを思いました。そのベースには、国民は国家のためにあるという北方の共通理念もあるんだろうけど……。
いずれにしても、一人の人間が相手にするには、「国家」なんてややこしすぎる。
ただまぁもしそうなら、その無機質すぎる感覚と、命を捧げるほどに忠誠と愛を捧げられてしまう熱量のバランスが、ほんとサリュートってやつは恐ろしくも狂ってんなぁと思ってしまいました。
それは確かに愛なんだけど、彼の愛には情がない……何しろ想う相手が「国家」なので仕方ない…。あんなに泥臭く高潔に生きた人なのに、そんなことってあんのかよって泣いちゃいました……
「我こそはアルブレヒト」
ジゼルに関しては、すーんげえ前に佐々木大さんがアルブレヒトを演じるバレエを観たかなー、ぐらいなんですよね、知識が…。なのでほぼ知識がwiki頼りなんですけれども、これほんと初見殺しじゃないですか?
まず横文字の名前多~~~~~ってなりました。ギリで「ガラ」は覚えてたけど、メテオリットは及川昴、銀の仮面は穂波葉礼で覚えていたレベルの私には厳しい…。フォークス機関は何回も「ボスホート」って言う……。まぁ2回目の前に死ぬほど予習したので、2回目のテストは満点でしたけど。「ヤマシロ」覚えやすかったなぁ……。というか、そうなんですよね、初見というか、私殺しなんですよね……。つらい。
まぁそれは置いといて。
わざわざ「ジゼル」の題名を出して持ってくるからには、そこかしこにモチーフとか配役があるんだろうなぁと思いながら観るじゃないですか。それでいくと、冒頭から「ジゼルにアルブレヒトの本当の身分を告げ口するヒラリオン」とか、まさにスークだなぁって思いました。さらにサリュートの母:ジゼルのかつての恋人であり、サリュートの父である男(おそらくアルブレヒト)に裏切られて重症を負わされ、暗転に消えるサリュートはまんまバレエ:ジゼル第一部のジゼルの配役を請け負ったのかなぁと思えるし。
だからこそ、「僕はアルブレヒト」の台詞には大混乱したんですよね。
え~~~さっきまでのはなに~~~~~!?あなたジゼルでは〜〜〜!?って感じで。
ただ、まぁよく考えれば、あの宣言をした時、舞台上には既にそれまでの「アルブレヒト」であっただろう竹内はもう居ないので、サリュートがアルブレヒトを請け負うことは一応可能なんですよね。
ただ請け負うからなんなの、ってところはある。請け負ったからなんなんだ?っていう。
そこからの百人斬りが待ち受けていることを思えば、その死闘に対する自分への鼓舞とも思える。それにしたって、アルブレヒトをチョイスする……?
なので割とずっと不思議だったんですけど、まぁ自分なりにこじつけてみるなら、「サリュートは死ぬまでジゼルだった」のかなぁ、ということで一応の結論としました。
というのも、バレエ:ジゼルの演目でいえば(特殊なシナリオを除き)、アルブレヒトは死の舞を踊り狂うわけですが、死の間際で夜が明け、ジゼルとその他の妖精たちは光の中に消えていくらしいんですよね(ざっくり)。
とすれば、やっぱり黄昏を越えて暁の中で死んでいったサリュートはジゼルだし、ならば、あそこで「僕はアルブレヒト」であるとの偽りの宣言は、さながら死んで亡霊(妖精)となってもなおアルブレヒトを守ろうとしたジゼルのように、すべての悪を偽りの身分(フォークス機関の首謀者)によって一人で引き受けた彼にこそふさわしい健気さだなぁと思いました。
バレエの本筋とは違いますが、「家族」または「家族ともいえる国家」に対して、ひたむきに想いを向け続けたサリュートならではの台詞かなぁと。
そんなふうに思った次第です。
荒野にひとり
初めて黄昏の荒野を観た直後、最初に感じたのは「なぜ死んでしまったのか」ということでした。
まぁなんか矛先はたくさんあって、何に対してのモヤモヤなのかははっきりしないまでも、とにかく「死ぬ必要あった????」という感想がまず残ったんですよね。なんかもっと方法あったんじゃない?とか、彼である必要はなかったんじゃない?とか、色々ほんと考えていました。
「死ねばいいってわけじゃないからな!」とか「そんな簡単に死ぬのありえん!」とか、そういうことも思ってたんですよね。
いやほんと、その時の自分と今の自分が解釈違いすぎて死ぬ……。
ただまぁ、初回後はほんとそんなことをずっと思っていまして。そんなモヤモヤしたものを抱えたまま、他の方のネタバレも見ずにひたすらふせったーへの壁打ちを続け、いよいよ2回目の観劇となって、それからは物凄い勢いで自分の中のモヤモヤが消えていって、それこそ回を重ねるごとに昇華されていったのを覚えています。
何がきっかけだったのかは分からないんですけど、とにかく今は、まったく逆のことを思っています。いや、悲しいのは悲しいし、なんでなんだよ〜〜って気持ちは晴れないままなんですけども。
でも感想がこんなにも変わったきっかけは多分きっとスークのおかげだと思うんですよね。結局は、スークがサリュートにむけて弾丸を打ち込むわけなんですけど、それまでに何度も「嫌だ」と反発するスーク。そんな彼に向けたサリュートの「お前じゃなきゃ意味がないんだ」というセリフに、希望が込められているように聞こえたからかなと。そんなふうに思えたのがきっかけだったと思います。
そしてきっと色々なものを振り切ったスークがついにその撃鉄を下ろしたからこそ、その希望が繋がれて、サリュートの「生きるために考え抜いた」、その生き様がああやって締めくくられたんだなぁ、と思うと、あの結末は「死ぬためのもの」ではなく「生き抜いた結果」だったのかぁと、ふと思えました。
結果は一緒なんですけど。
でもそこに込められた意味は全然違うんだ、と気付くと、それ以前のサリュートの言動に対する見方も変わりました。
例えばそやって生き抜いたサリュートですら、ああやってスークが引き金を引く直前までは確信のない生き様だったのかな、とも思えました。待ち受ける死を知りながら強く決意して突き進んだ先の結末ではなく、自分の信念を貫き通すために無様であってもひたすら出来ることをやりきった結果として逃れようのない死を選ぶしかなかった、というか。これはもうほんとニュアンスなんですけど、諸手を挙げて引き寄せた死ではないんだなぁと、思えただけで少なくとも私は救われました。
そして、その道を突き進んだとして、必ずしも思う結果が得られると確信していたわけではないんだろうな、というのも、ユランの「君はやった」で変わる表情や、「僕を見ろ」と絶叫するところなど、なんかもうその必死さが本当に痛かった。
肌にビリビリ刺さるみたいな、あんな痛さってあるんだなって思いました。
ほんとに、ガラは人をよく見ているんだなって思えたんですけど、サリュートって愚かだなぁって思うんですよね。ただその気高い精神が、何ものをも凌駕して、自分の身すら食い潰したような気がします。
ただやっぱりそんな彼にも恐れはあったのかなと思うのは、遺言をのこしたところです。あのサリュートが。
一体誰に遺すんだろうって思ったんですよね。彼はほんとに、孤独なのに。
だから続いた言葉が同志に向けたものだったとき、「なーんだ」と思ったんですよね。あくまで「理想的なサリュート」の遺言だなぁって。
ただ、結末を観て、そこに立っていたスークと向かい合って「それがお前の暁だ」とうっすら笑い泣きのような顔を見せたサリュートを観て、そんな「なーんだ」って思いは吹っ飛びました。
遺言って、残された側が遺言を全うしているところを、残した方は知る由がないんですよね。だから遺言なんですけど。
でも、死んだ後にも遺したいという強い想いや願いがやっぱり込められているわけで、だからこそサリュートは「同志が暁を知る」ことを望んだわけで。
その願いがまさに死の間際に叶った瞬間を目の当たりにして、しかもそこへ至ったのがスークだったときの気持ちって如何ほどのものなんだろうと。ちょっと想像を絶するのですが、その瞬間を18回も越えた山田ジェームス武という人にはほんとに尊敬の念が尽きません。
サリュートという人は、ほんとに「愚か」で「気高い」を両立する人だなぁと想いました。
「スーク」
ボスホート所属のスーク
幻夜を見て、めちゃくちゃ期待しませんでした?
悠久ではバディといえどもスタンドプレーが基本、みたいな、いつだって引きずり下ろしてやるぜ、ぐらいのなんか、「仲間」ではねぇな、みたいなスークとサリュートの間にも、きちんと何かしらの「関係」が芽生えてるんだなっていう。そう思えるぐらいには、スークの中のサリュートってそれなりに存在していて、彼にとって、秒で切って捨てて忘れる程度のものでは無いんだなというか。
見ているこちら側からすると、サリュートになにか起こっても彼がいれば大丈夫だな、みたいな、スークへの信頼が高まったりしませんでした? 幻夜って。
少なくとも、探し回ったり、助け起こしたりするんだなって。そんで、1人で歩き出したサリュートの歩調に合わせて歩けるやつなんだなって、こう、透けて見える空気感に名前はまだ無いながらも、何かあるんだなって。なんかそう思ったりしたんですよね、幻夜。
なので、スークが居るから安心とまではいかないまでも、彼が何かしらのストッパー、または、サリュートにとっての緩衝材のようなものになってくれるのかなぁと薄っすら期待したりしていました。
しかし、結局のところ。
サリュートは死んで、スークは北方を抜けて、という本当こう、想像してなかった展開というか。そして誰もいなくなったっていう。
まぁメサイアなので、誰かが散るかもしれないとは常に頭の片隅にはあるんですが、だからといって具体的には想像してなかった結末でした。(そもそも散ってほしくないし)
見終わってすぐには、「スークにそこまでの力は無かったのか…」と遣る瀬無さを感じてしまったほどです。
ただし、観終わってからもぽつぽつと考えていて、彼が「サクラ」ではないことを初めてリアルに思い出しました。いや、当たり前なんですけど。ただ、スークとサリュートは、サクラでは無いんですけど、それに近しい「敵とも言い切れない何か」っていう先入観みたいなイメージが強くてですね。そこに至って、ようやく「スークはボスホート所属のスパイ候補生である」という事実と真っ向から向き合えた気がします。
幻夜でも、あくまで「あいつがいないとワクワクできない」と、サリュート捜索を行っていたスーク。当初は、そもそも、なんで彼がサリュートと一緒に行動していなかったのかと不可解だったんですが、「サクラ候補生」でもなければ「メサイア」であるはずもないので、当たり前っちゃ当たり前なんですよね。
今回の黄昏を見ても、必ずしもサリュートとスークはバディなわけでもなければ、ツーマンセルが必須というわけでもないだろうし。(暁・外伝のサリュートは1人でしたもんね)
だとすれば、スークがサリュートを助けなければいけない対外的な理由なんてこれっぽっちもないんですよね。特に、彼らを捨て駒としか思わない北方においては。
幻夜ではドクターテンがスークに嫌味のようなことを言ってましたけど、あれって北方のボスホートのスパイにとっては、かなり的を射た質問だったわけかーとなりました、今思えば。まさに酔狂なことだったんだなぁと。
だからこそ、幻夜でサリュートを探し回って、ビーツの祝祭前にサリュートを思って父親の真実を告げて、自分の意志で被験者(と家族)を助け、サリュートの今際の際に駆け付けたスークという男は、何のしがらみも理由にすることなく、それにどんな名前がつくのかは分からないけれど、間違いなく自分の意志のもと、サリュートを想って行動した人物だったんだなあって、今はそう思います。
なら、それがサリュートに伝わっていないわけもなく、だとすれば、あの狂乱の終わりに訪れた結末は、決してスークの力不足ではなくて、スークが彼に全身全霊で寄り添った結果だったのかもな、とストンと腑に落ちてしまいました。
栄誉を糧に育つ国
スークがボスホートに所属する理由って、悠久での登場時からすごい謎だったんですよね。高官の息子というのは当初から情報がありましたし、一方で恵まれていない環境のサリュートがボスホートに所属しているという、その二人が同じく籍を置くボスホートって一体?となりました。
いわゆる汚れ仕事を請け負う立場ですし、サクラの採用条件を事前に知っていた身からすれば、多分だけど持て囃されるような職業ではなさそうですし。スークまじで何故???ってなってたんですよね。本人は「ワクワク」を求めて、みたいなこと言ってましたけど、いやそれだけで??ってなるほど過酷そうじゃないですか、ボスホート。チャーチもなかなかですけど、勝手な印象ではそれ以上に過酷かなって思ってたりしたんですよね。
そして黄昏を観て、その地位ゆえに抱く劣等感という、「えーーそんな高校生みたいな、まじでーー!?」みたいな理由が明かされて、それだったら「ワクワク」したいがゆえのアドレナリンジャンキーの方が納得だったわ〜〜とミサワフェイスを晒したりしたんですが。
よくよく考えてみると、北方においての「栄誉」ってめちゃくちゃ尊重されるんだなと気付きました。
それこそ、めちゃくちゃにややこしい出自で、かつ、ボスホートで汚れ仕事を請け負っているサリュートにすら手に入れる権利があるほどには平等で、そして手にしたからにはオデッサから家族を救済できるほどに強力な権力ともなり得るって、よく考えたらすごくないですか?
それこそ、地位も金も権力も、生まれながらに与えられているスークが必死になって得ようとするのも分かるほどに。それ以外に、彼自身が自分の手で手に入れることができる「地位や金や権力」以上のものってないのかもしれないなぁ、と。そう思った時に「なるほどなー」ってなったんですよね。
そして、納得しながら北方こえーなーってなりました。
オデッサ出身の男や、日本人や、政府高官の息子ですら、国に対して忠誠を誓い、国のために奉仕をして栄誉を得るという点においてはまさしく平等なんだなぁと思うと、ほんと寒気がしてきます。
そんな国のまさにステレオタイプ的に生まれ育っただろうスークにとって、地位と栄誉を確立するため以外に思考することは、まさしく自我の崩壊に等しかったんじゃないかなあと思いました。
それこそ、頭グチャグチャになるぐらい引っ掻き回されたんだろうなぁと。
そして、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかを、国という枠をはずして考え始めて間もなく、僕を殺せ、と言われた心地はもうほんと、いやそれ、無理やろってなりますね。
だからこそ「嫌だ」と強く反発してみせたスークの姿は、ほんとに彼自身の自我しか感じられなくて、毎回めちゃくちゃ泣いてしまいました。
それでも、「お前じゃなきゃ意味がないんだ」と言われて、最後に引き金を間違いなく引いたスークという男は、地位も栄誉もないそんなところを引き受けた彼が、なんかもうほんと、切なくて堪りませんでした。
メサイアではない二人の男について
サクラ ≠ ボスホートのスパイ
初めに黄昏を観終わったとき、あまりの出来事にパニックに陥りませんでした? 私めちゃくちゃパニックだったんですよね。
それもこれも、よくよく考えると「私はメサイアを観る」という意識が強すぎたせいかもしれません…。どうしても、メサイアというとニコイチで考えてしまうんですよね。それはサクラ候補生に限らず、例えば三栖と周とか、遠矢と鉄とか。
なので、スークとサリュートもまぁニコイチの意識が非常に高くて、「なぜスークはサリュートを助けないのか?」という思考がチラっと脳裏にこびりついていました。
でもほんと、よく考えなくても、別にスークはサリュートを助けなくてもいいんですよね。何しろ「メサイア」ではないので。しかも孤独ではないので、それこそ同じボスホートのよしみ、とかそんな情に流される必要もないわけで。
しかもなんですけど、サクラは「メサイア」にとっての自分というのが、彼らにとってかなりの割合で自分を構成するものになるじゃないですか。ほぼアイデンティティといっても良いかなと思うんですよね。
一方でボスホートはといえば、その忠誠や意志を向ける先には「国家」というものがまずあって、それに対して何が出来るかと考え、行動し、見返りとして「地位と栄誉」を得るというシステムじゃないですか。
なにしろ卒業試験からして、「何が国のための奉仕になるのか」を自身で考えるような機関に所属している二人ですから…。チャーチでは目的や結果が重視されるように感じるんですけど(悠久の試験内容とかみても)、その過程にこそ重きを置いているようなボスホートはまさに正反対の組織なのかなと思えます。
そんな組織に所属している二人が、考え抜いて、行動した結果。
だからこそなんですけど、「サリュートに対して、何もする必要はない」スークが、ああやって自身の意志でサリュートを慮ったのは、とんでもなく凄いことなんだと思いました。
黄昏において最初と最後以外ほとんど一緒に行動しない二人は、まさしく「他人」であるはずなんですよね。だけどそういう「他人」であるはずの二人が、それぞれの意志の先に辿り着いた荒野で、あんなふうに邂逅して見せたのは、なんとも「メサイア」的だなと思わずにいられませんでした。システムとしてではなく、シリーズタイトルとしての「メサイア」という意味で。
メサイアって言葉を使わないなら、奇跡とか希望とか運命っていうのかなぁ。あんまりしっくりこないから、やっぱりメサイアかなぁ。
そしてやっぱり「メサイア」タイトルのついた作品であってくれてよかったなって思いました。
メサイアというタイトルのついた作品の中で、そうではない、その関係になんの名前も付かないような二人が見せた生きる姿は、本当に全力で、命懸けで、そしてあまりにもそれぞれの想いが優しくて、なんかもう毎回観終えた後には感謝の言葉しか出ませんでした。
メサイア好きになって良かったな……。
▼長くなりすぎたので後編に続きます。