いつも前のめり

好きなことを好きなだけ

ユメカワ♡キャッスル

お城があったんですよね、実家近くの川沿いに。

近くっていっても、車で15分は走らないといけないような距離で、小学生にもなってなかった私の生活圏内ではぜんぜんなかったけど。

そして本物のお城ってわけではなくて、

こう、お城風って感じの建物で、ディズニーのシンデレラ城とか、

幼い私にはあれらと同じものに見えてたんだよね。

昼間は茶色い外壁が野暮ったいんだけど、夜になるとキラキラしてて、前を車で通り過ぎるときなんかには「キレイだな~」って見上げていた。

 

それでまあ、私はその建物をお城だと思ってるわけだから、当然の疑問として「誰が住んでるんだろう」と思うわけ。

シンデレラかな、白雪姫かな、みたいな。

で、ぜんぜん分かんないから大人に聞くんだよね。

「あのお城って誰が住んでるんやろ」

とかって。

 

なんて聞いたか正確には覚えてないんだけど、

車の中から例のお城みたいな建物を見上げながら聞いたときの、あの気まずそうな大人たちの苦笑だかなんだかって顔と雰囲気。

あれだけはほんと忘れらんない。

大人に聞いたらイマイチなことってあるんだな~、って多分あのときの記憶が、今ある最古の記憶だと思う。

そしてこの記憶のおかげで、お子様と触れ合うときには、大人と遊んでくれてありがとう、という気持ちがほんのりとある。

子供って案外と大人の顔色見てるし、忖度してくれてたりするよね。

 

っていうか、大人と子供の境界ってほんとよくわかんないな。

大人になっても、子供と同じようにお城に惹かれるんだもんね。

 

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食う寝る処に住む処【家探し①】

いまの部屋に引っ越して1年と9ヶ月。

とくに「引っ越さなければならない」という理由はないのだけれど、家探しを始めた。

なんとなく続きそうだったので、①とナンバリングしてみた。

 

今のところ、賃貸でもいいし、良いところがあれば購入も検討している。

今回はどちらも対応できる不動産仲介と面談して、いろいろと要望や金銭的条件、妥協できるところ、絶対に譲れないところなどを打ち合わせしてきた。

その面談のなかで、今の部屋に「不満」はないんだよなあ、とは思った。

食う寝る処に住む処としては十分に要件を満たしている。

けれども、ちょっとした「もっと、こうだったらいいなあ」が思いのほか沢山積み上がっていることに気が付いた。

そして、他の部屋ならこれらもクリアできるのでは? と考えての家探し開始となる。

ひとつひとつの要望はたいしたことないんだけど、それが積み上がって困難になるのが家探しというもの。

犬の散歩で毎日のように1時間ほども歩いていると、「こんなに家はあるのになあ」と町並みを見上げて思う。

もちろん、続くのは「自分にピッタリの家ってないなあ」となる。

難しいよね…。

 

それからこの面談に際して色々と考えるうち、どうやら私の理想を掘り下げていくと、幼少期に過ごした実家が「理想」の原風景に近いことがわかった。

ただ、それは「田舎だったから叶っていた」みたいな部分が大きく、それを都会で叶えるのはかなり高いハードルをいくつも超える必要があるのも事実。

だったら田舎に引っ越せばいいじゃん~、とならないのも、家探しをしているのは「いまを生きている私」であって、「過去にあの理想の家で過ごせてた私」ではないという剥離の為せる困難さ…。

 

いまいる場所で理想の家を探すというのは、過去の理想を抱き締めて離さない私を、どのように慰めて説得するか、ということでもあるなあ、と感じた。

それは先週末の片付け作業中にも感じたのだけど、過去の思い出深い品を手放すのって、本当に難しい。

打ち捨てるというのは自傷のようだし、かといって、抱え続けるのも不健全なようにも思う。

 

上手に生きるって難しい~。

ナイスな週末【偉業】

「片付け」というと、「=右から左へ動かす」ことを指す私。

一応、室内犬と同居しているので、床にものが散乱していることもなければ、不潔ということもない。

床は基本的にスッキリさせて、水回りも清潔さを保っている。

けれど、片付けというスキルだけは、この事実と決してイコールではない。

つまりどういうことかというと、本を収めたダンボールが6箱ほど、部屋の片隅に積まれたままになっている。

いつからかというと、引っ越した当初からなので、1年半ほどそのままだ。

片付けアドバイザー的にそれはもはや不用品なのだが、本の収集家からすれば、一度手にした本を手放すことは身を裂かれるほどの苦痛を伴う。あと実際、数年後にマジで読む。

なので、コンマリ的にはOKだ。

どの本もめちゃくちゃときめくから。

ただし、急を要するものでものなく、ただ整然と積まれたままの本入りダンボールというのは、片付けスキルが0~1のわたしにとって、余程のことがなければ、「まぁ…こにあっても問題はない…か…」と見て見ぬふりがあまりにも容易にできてしまう代物だ。

たしかに、少しばかり邪魔ではある。

ダンボールと一口にいっても、W80cmぐらいのダンボールはまあまあでかい。

それが6箱。

そこそこ邪魔である。

だから片付けなければならないんだけど、「よっしゃ、やるか」の日が1年半こなかった。

 

けれど、今月。2023年9月。

はじめて我が家へ泊まりに来るという友達が、2週連続である。

もう、これこそが好機ではないかと。

これをのがしたら、一生このダンボールと同居になると。

そのような万感の思いで、ついにきたる「よっしゃ、やるか」となった、この週末。

 

やってやりました。

6箱、キレイに片付きました。

おかげで、いまめちゃくちゃ床が広い。

もっと早く片付けておけばよかった……とは思うものの、あの面倒臭さとはやはりなかなか戦えない。

モチベーションがない。

でもなんとか片付けました。

 

まさしく、偉業。

スッキリした床を掃除しながら、程よい疲労感とともに得る満足感。

ちょっと自分を褒めました。

ちょっとイイ感じだった日の絵日記

春の入り口が見えてきた土曜日。

天気は広く青く鮮やかな晴れ。そんな理由で散歩に出た。

ちょっと遠い公園近くのおしゃれなカフェに立ち寄った。

焙煎にこだわったアイスカフェオレがとても美味しい。テイクアウトでそれを飲みながら、さらに歩く。

何度も通っているはずの道が、園児の描いたアートでとっても映えスポットなことに気付いた。

そういえば日焼け止めを塗ってない。

「やばー!」って友だちと笑いながら、なるべく陽に当たりにくい路地の方へ進路変更。

そこで見つけた「ケール 50円」の文字。

八百屋さんのタイムセールで、ケールの他にも新鮮な野菜を手に入れた。

ケール、菊名、きのこ、プチトマトにホウレン草、他にもいろいろ。

お会計まで少しだけ並ぶ。

前の人も後ろの人も、「この野菜、どんな料理にして食べよう」って話していてワクワクした。

 

「そういえば、春物のカーディガンがほしいんだよね」

今度は服屋さんを物色。

あちこちに掲げられてるNEW ARRIVEの文字が爽やかでいい。

私はついに見つけたミントグリーンのカーディガンとジーンズを購入。

ちょっとだけお安くなっていて嬉しい。

「ただこれね、」

と買ってから友だちに打ち明ける。

「試着したとき、ちょっとだけキツかった」

私が買ったのは、ねじ込むタイプのスキニージーンズ。

ちょっとだけ。マジでほんのちょっとだけきつかったけど、入らないことはないし、あと何よりめーっちゃ可愛いの。

「痩せなきゃなー!」

ジーンズ買うたびに、そんなこと言って笑ってる気がする。

でもジーンズってそのうち私の体型にマッチしちゃうんだよね。それも知ってる。これからよろしく、おニューのジーンズ。

それからお腹が空いたから、犬も同伴OKなイタリアンで夕食。

オープンテラスが気持ちいい。

「カンパーイ」ってして、歩き疲れた体を癒やす。

このイタリアンはパスタもピザもリゾットも「炭水化物」という項目にまとめられていて、食べたいものを注文してたら、その項目から3つもオーダーしちゃってた。

「痩せなきゃー!」ってちょっと前に言ったばっかなのにね。

楽しいし美味しいからオッケーになっちゃう。

そんな土曜日。

たのしかったな。

次の日からまた気温が下がって、カーディガンはまだ着られてないけど、ジーンズはね、もういい感じ。かも。たぶんね。

少しだけど変わっているみたい【国際女性デー】

もう十何年の付き合いになる高齢男性がいる。

私が知り合ったときから、括りとしては高齢男性だった彼は若い頃からバリバリ働いて未だに現役を貫く、まさにやり手の仕事マン。

経歴もさることながら、人生経験も豊富なのでお話していると面白いことのほうが多い。

けれど、そういった男性に対して「若い女」である私が会話をしていると、時として強烈な差別的発言や偏見のシャワーを浴びることにもなる。

彼氏はいるのか?

結婚はまだなのか?

そんなんじゃ"女"として終わってる。

例えばこんな風に尋ねる彼には悪気なんてまるでない。

それどころか、他にも、容姿や料理の腕前ジャッジなどレパートリーも無数にあって、まさしく、どこに出しても恥ずかしくない「昔は許された」らしいホモソ成分をふんだんに含んだ穫れたてピチピチのハラスメント男性である。

 

彼は「普通はさぁ」とよく女性に言う。

もちろん、いまを生きる女性にあらゆる多種多様な属性があることは前提になく、ただステレオタイプ的に「オレが思う"女"といえば」が頭につく。

さらに悲しい現実として、そんな高齢男性に「男女平等」を説こうという人は皆無だ。

多少なりとも言い含める必要があるのは分かっている。

けれど私自身も、何も言わない一人と成り果てている。

だって、どうしようもなく「言ったって仕方がない」と思ってしまっている。

こういう男性が変わることはない。ただ、過ぎていくのを待っていよう。

そんなふうに思っていた。

 

のだけれど、先日のこと。

この高齢男性と話す機会があり、話題は私生活のことになった。

その時にも、やはり彼は結婚の話題を振ってきた。いつもだったら、軽く笑って受け流す場面なのだけれど、私はついポロッと返してしまった。

 

「でもまぁ、いま幸せですし~」

 

言ってしまってから、しまった~~~~と、とても焦った。

何しろ私の状態は彼の「普通の女の幸せ」からは遠く離れているし、そのうえ「でも」までつけて、彼の意見に反してしまったのだ。

通常であれば、彼は大抵の場合、ムキになって私に「普通の女の幸せ」についてを"教えてくれる"か、不機嫌になるかだ。

ミスったな…と思う私は、できれば不機嫌になるだけで終わってくれと願っていた。

しかし、どうだろう。

 

「そうやんな~幸せやったらもうなんでもええよな、それが一番や」

 

彼が返した言葉はこれだった。

本当に、驚いた。

え、あの人が? ほんとに?

おそらくだけど、誰一人として、彼に「女性差別」について教えたりはしていないだろう。

そのはずなのに、彼は彼自身の意見を翻したのだ。そして、彼が初めて「女」という記号ではなく、「私個人」と向き合った瞬間だった。

驚いた。心底から驚いたし、少しだけホッとした。

それから、このことをブログに書こうと思った。

同じように自分の幸せを追求する、そんないち個人として向かい合うだけで、彼とは十何年の月日が必要だった。おそらく、私が男だったら、こんなに長い時間は必要なかっただろう。けれど、こんな年月を費やしてでも、一人の価値観が公平・平等へと傾いたのは大きいはずだ。

とはいえ、今回の高齢男性のようなケースはまだまだ稀かもしれない。

けれど、「絶対に死ぬまであのまま」だと思っていた彼が、こうしてほんの少しでも変わったのは、どこかで、誰かの発信を見たからだ。

日本だけでなく、世界中で毎日のように女性への差別や犯罪などが起こっていてキリがない。

こんなに情報は発信されていて、訴え続けているのに何も変わってない。

そう思っていたけれど、こうして少しずつ変わっていることもある。それを目の当たりにできた経験は、とても大きい財産だと思えた。