いつも前のめり

好きなことを好きなだけ

【こんまりメソッド】でサバイブするわよ

大前提として、部屋は片付いてないです。

片付いてないというか、日常が続いており、部屋の中は無風です。

 

じゃあ「こんまりメソッド」で何を仕分けているかって、部屋や物ではなく、感情と自分を取り巻く状況です。

 

※ぜんぜん明るい話じゃないし、親からサバイブしてる人にとってはフラッシュバックの可能性があります。ご注意ください。

 

 

私の「家族」というのは、世間一般で言う健全な方ではなく、どちらかといえば不健康。母親とは良好な関係を結んでいますが、それ以外はとても微妙。

なかでも、家族と健全な日々を送っていらっしゃる方に、会話の流れで普通に父親の話をして、「ごめん、言いにくいかもしれないけど、虐待されてないよね?」と気まずそうに聞かれたことが過去に2度あります。(別々の方から違う話題で)

なお、当時の私にはそのような体験の自覚はなく、ただちょっと悲しかったんだよね~と自虐エピソードとして笑いの種にしていました。けれども一つ一つのエピソードを他人として客観視すると虐待と判断するのは微妙ではあるものの、「まあまあやばいよね」と、三十代にしてようやく思うことは多々あります。

 

そんで、普段であれば関わることもなく、仲の良い母親とだけ人間関係を結んでおけば良いのですが、冠婚葬祭が関わると話も変わってくるというもの。

で、土曜日ね、あったんですよね。

弟の結婚に際しての親族顔合わせというイベントが。

 

それで数年ぶりに顔を見て口を聞いた体験と、過去にまつわるさまざまがフラッシュバックして、以降、どん底まで落ち込みました。

やばいのが、でっかい落ち込みの波が来ると、いったい自分がいま何に落ち込んでるのかなんて、まるで分かんないんだよね。

ひたすらにしんどいし、悲しいし、落ち込む。

ちなみに日曜から月曜にかけて、私の居住地域は大型の低気圧が襲っていた。たぶん、それも一因ではある。

 

少なくとも、多少なりともの収入があって、犬が居て、友達がいて良かったと心底思います。

おかげで悲しいですんでいる。

 

まあそうしてとにかく落ち込みまくって、数年ぶりに「悲しくてシクシク泣く」という、大人になるとまあまあ事件なことをやり、ひたすら犬を抱き締めた。

それから寝て起きて、火曜日になって、低気圧も去り、少し土曜日から時間的にも物理的にも距離を置いて、多少落ち着いたとき、不意に「片付けよう」と思考を転換できた。

 

そうして手を出したのが「こんまりメソッド」ってわけ。

 

こんまりメソッドについては公式にざっくりと分かりやすく1ページにまとめられていて大変有り難いので、これをぜひ見て欲しい。

▶ KonMari Methodとは - KMJ


(引用:https://konmari.jp/method/

 

すぐに「片付けよう」から「こんまりメソッド」にたどり着いたわけではない。

落ち込んだ感情をひとつひとつ切り分けて、どうして悲しいのか、なにがつらいのか、とラベリングをして分類して、仕分けたものを「さて、どうしようか」と眺めていたときに、ふと思い出したのが「こんまりメソッド」のこのフレーズ。

片づけの極意は、「何を捨てるか」ではなく、「何を残すか」。モノを一つひとつ手にとって、触れてみることが重要です。体の反応を感じて、ときめくモノは残し、ときめかないモノは手放す。こうすることで、自分にとって「持っていて幸せになる」「心がときめく」モノだけに囲まれた生活を手に入れることができます。

刺さる~~。

刺さりすぎる~~。

こんまりメソッドで片付いた部屋を見て涙する人たちの気持ちがめちゃくちゃ分かる。

こんまりさんは、整理整頓に対してこの言葉を使っていらっしゃるものの、まさしく私の状況や状態、母を除く家族との関係に当てはまるなあ、と思ったんですね。

 

そんなこと言っても家族じゃん、ってまああると思うんだけど。

私も少なからずそう思っていた部分はあったんだけど、交流はなくとも共通の知人や母を通して私ですら彼らの近況を知っているところ、一方で父や弟はまるで知らず、挙句の果てに「今って名字なんだっけ?」と顔合わせの場で聞かれてしまうと、流石に、ワハハと思うわけ。

興味なさすぎじゃん!! なんで呼んだんだ!! いや、そういう奴らだった!

って思い出すのよ。

はたして、私のこのちょっとばかり謙虚に思っていた感情ってなんだったんだ? となるのよ。

 

血縁信仰はなくとも、それでもまあ、「勝手にアサインされたものの、それなりに同じプロジェクトに取り組んで汗水流し、同じ釜のメシを一時とはいえ食った」縁はあるよね、と思っていたし、まあいうて家族ではあるし、と顔合わせに出席したこの人情。

どうしてくれる。

心ときめかない、どころの話ではない。

もう一度、こんまりメソッドを見てみよう。

 

片づけの極意は、「何を捨てるか」ではなく、「何を残すか」。モノを一つひとつ手にとって、触れてみることが重要です。体の反応を感じて、ときめくモノは残し、ときめかないモノは手放す。こうすることで、自分にとって「持っていて幸せになる」「心がときめく」モノだけに囲まれた生活を手に入れることができます。

 

そうだよね…ほんとにそうだよね。

 

私と血の繋がってない人たちのほうが、私に親切だし大切にしてくれるし、そこには私ってものへの尊重や敬意、少なくとも関心がある。

一方でだよ。血が繋がってたら蔑ろにしていいってのかい? 尊重なんてする必要ないって? そりゃあ、あんまりだよ。

失礼があってはならねえ、と色々気遣いながら駆けつけたのに、こちとら、くたびれ損じゃねえか。いやこれだって、今更だ。いつだってそうだったわ。

なんだよ、答え出てんじゃんって。

 

とりあえずさ、父親(仮)に「メシでも行こう」と8年ぶりくらい、離婚後4度目くらいに言われて、まあそれを言われた土曜日から音沙汰はないんだけどさ。

本当に連絡が来たら、「行かない」とはじめて言おうと思っている。

情も愛想も尽き果てて、もう何も残ってない。懲り懲りです。

あんなので消耗してる場合じゃないんだよな~。

 

とりあえず子供って、どんな親だろうと「呼べば来る都合のいい血縁」でないことは理解してもろて。

 

わざわざ傷つきにいく必要はないし、逃げても手放してもいい。

そうしてどうにか「ときめき」だけを残してサバイブする予定。