いつも前のめり

好きなことを好きなだけ

カモミールティーの走馬灯【カナダ滞在の思い出】


最近、コーヒー飲み過ぎだな…と思って、コーヒーの飲む量を減らす代替品としてハーブティーを取り入れ始めた。

ジャスミンやローズマリーなど香りのいいものをローテしながら飲んでるんだけど、そのなかでも、ひときわ懐古を刺激する香りがある。

それがカモミールティーだった。

 

かつて、まだ学生でコーヒーも飲めなかった頃。

1ヶ月ほどをカナダで過ごしたことがある。

 

8月の二週目をすぎると、カルガリーは雪すらチラつく寒さだった。

語学学校への道のりは30分以上あって、手の中になにか温かいものを、とホストマザーが持たせてくれたのが「カモミールティー」だった。

カモミールティーを飲んだのは初めてだったけど、その美味しさと、お茶とは違うハーブの香りがちょっと背伸びをしているようでとても気に入った。

それからカナダに滞在している間はずっとカモミールティーを飲んでいた。

市販のティーパックも淹れて飲んだし、スターバックスでもたしか2.5ドルくらいでグランデのカモミールティーを注文できた。

授業中も、ショッピング中も、遊びに行くにもカモミールティーが手の中にあった。

 

そんなふうに、ほぼ水みたいにカモミールティーを飲んで過ごした1ヶ月だったんだけど、帰国してみるとカモミールティーって学生にはちょっと縁遠くて、手の中にあった温かさも香りも、すっかりカナダへ置き去りにしてしまった。

 

それからはコーヒーにハマってハーブティーを飲む機会もないまま過ごし、冒頭のような動機で、ひさしぶりにカモミールティーを口にした。

そしたらもう、キラキラがすごかった。

忘れてたのとか、最近思い出してないのとか、そんな記憶が箱をひっくり返したみたいに頭の中で溢れかえった。

特にすごいなって思ったのが、ただ思い出そうとして反芻してみたときより、質感や光が鮮明なこと。

芝生に反射する木漏れ日とか、急な寒さで乾燥した皮膚とか、湿度の高い雪雲の街とか、ふとした瞬間が一気に蘇った。

これってもしかして、走馬灯?

って、そんなことを思うくらい取り留めもないのに、心地よい記憶ばかり湧いてくる。

もちろん、それはどれもこれも、カモミールティーに起因して、カナダで過ごした思い出ばかりだ。

 

しかもこれ、たぶんだけど

私にとってのカモミールってもしかして一生このままカナダの記憶なのかもしれないなって思う。

だってほんと、新しい記憶で上書きしようにも、カナダの煌めきがあまりに良すぎる。

 

匂いの記憶は他の五感より最も強いなんていうけど、それも本当なんだろうな、って思い知らされた。

ちなみに今はハーブティーのなかでもローズマリーにハマってて、はたしてこの香りはどんな走馬灯を編集するのか、今からちょっとワクワクしてる。

 

 

forward.id-crow.xyz

 

感情を書く【AI翻訳と人力翻訳】

去年の夏頃に、趣味の同人活動を通じて、とある韓国人と親しくなった。彼女も私と同じく同人活動をしていて、書いた小説を自費出版している。

そんな同じ趣味を持って、同じようなことをしている者同士で交流しているなかで、ある日、彼女から「私の韓国語で書いた小説を日本語で発行する手伝いをてしほしい」というオファーがあった。

 

え、なにそれ、おもしろそう!

 

ということで、私もすぐに快諾して、アマチュアたちによる韓国語の翻訳作業が始まった。

 

翻訳に関わるメンバーは私を含めて3人。

Sさん・・・原作者、韓国人、日本の単語を少しだけ読める、小説を書く経験豊富

Rさん・・・翻訳メンバー、韓国人、日本語学校に数年通っていた、小説は読むことしかしない

・・・日本人、日常的な英語がわかる、韓国語力はゼロ、小説を書く経験豊富

 

 

このメンバーで、当初の翻訳作業は下記のような流れで行っていた。

 

しかし、この流れはRさんの負担が大きかった。

というのも、平易な文章やレポートであればRさんにも訳す経験はあったものの、小説スタイルとなると少し勝手が違ってくる。そのため、半分を越えたあたりから、以下のような作業スタイルへと変更した。

 

これがさ、マジで、びっくりするくらい違うの!!

複数の翻訳機を交えつつ翻訳文のベースを作成してみたんだけど、どれもこれも印象は同じだった。

たしかに、Rさんの翻訳文にも「漢字間違い」「相手によって変わる言葉の端々表現」「表記ゆれ」など、修正の必要なところはいくつもあった。

けれど、これらに関しては、私が引き受けた「校正」の作業範囲でしかない。

あるいは、韓国の文化に根ざした表現を、どのように日本の文化に根ざした表現に置き換えるか、なども修正を行っている。(慣用句とか)

 

でも翻訳アプリでの翻訳文はそれら以上に問題があって、とにかくそこに情緒がない。ごっそり削ぎ落とされている。

これはAI搭載の翻訳アプリでも同じような結果だった。

確かに、ほとんどの文章は正しく翻訳されていた。

 

ちなみにこれ、私の偏見や先入観ってわけでもない。

というのも、上記のように作業スタイルが変更するという連絡を私が見逃しており、途中からあまりにも翻訳が平易になりすぎていたので「これはRさんの翻訳作業の途中?更新されるのを待った方がいい?」と確認したところ、発覚したという経緯もある。

この平易な文章というのが厄介で、小説の文章として成立させるために修正を加えるのがほんとにほんとに難しかった。

私は「何かを伝えたい」と思って書かれた文章には、そこに感情や色が描かれていると思っているし、実際にそう感じる。

国語のテストで「このときの筆者の気持ちをこたえよ」なんて問われるのは、その証左だろう。

明確に書かれていないものを、わたしたちは文章を読んで汲み取ることができる。そこには確かに、書き手が込めた意図や思いがある。

 

そういったものを拾い上げる時、一体何をもって「そう」と認識しているのか、今回の経験はそんなことを改めて考える機会になった。

文章はきちんと翻訳されている。

なのに、あまりにも質感に欠け、元の文章が活かされずに修正が必要だと感じる理由。

まだ突き詰めてはいないので、明確な結論というのはないんだけど、大きな問題は「場違い」かな、と思う。

 

たとえば、アン・ミカさんが提唱(?)するかの有名な「白って200色あんねん」というのがある。

まあ実際に数えてないのでわかんないけど、少なくともそう言われて、大抵の人はいくつかの白を思い浮かべられると思う。

そして、このシチュエーション、この文脈、この感情の揺れ動きが起こるさなかで「白」という言葉を用いる時に、わたしたちが文章を書くなら「どの単語を用いるべきか」と試行錯誤したりする。

そうして文章を完成させていくわけだけど、その完成した文章に載せられた「白」を表現する単語が日本語と韓国語で同じく機能するかというと、必ずしもそうではない。

これこそRさんが苦労したところであり、私がのちに翻訳機の文章を前にして頭を抱えたところだった。

 

だから、翻訳機の文章を前にして開かれるzoom会議での質問の多くは「この(日本語としての)意味はわかるの!! でもこう書いてある意図がわかんない!! このときって、こういうことをしてるの? こう思ってるから、こう行動したってことであってる??」という確認事項だった。

 

「日本語はわかるのに、意図がわからない」という経験、マジですごかった。

めっちゃくちゃストレス。

いまだかつてないほど、日本語というものに向き合ったなって思ったけど、実際には感情に向き合ったからこそのストレスだったのかもって今になって思います。

やっぱり人間みたいに言語を操るAIだけど、まだまだ「感情を書く」って無理なんだと思う。

ExcelやWordとかわんねえな~、ってさ。

やっぱ、人間の感情は人間にしか書けないよ。

って、そう思った。

 

それに、AIがもし自分の感情を獲得したら、そのときは人間の感情なんか書かずに、AI自身の感情を書いたりするのでしょう。

しらんけど。

食う寝る処に住む処【どこでなに買う?】

以前にこんな記事を書いて、その約1ヶ月後に家を買いました。

いや、打ち切りの連載マンガかってくらい展開はやない?

って感じなんだけど、こういうのは縁なので即断即決で買ってしまって、引っ越して、3ヶ月ほど経ちました。

 

買ったときの話はまた別に書こうと思ってるんですけど、今回は家づくりのはなし。

家づくりというか、あらかたの周辺リサーチを終えて、「どこで何を買うか」のフェーズに入ったという話です。

 

普段の買い物って、いまは結構いろいろな選択肢があると思うんですよね。特に市街地だと、お店の数も種類も豊富だし、ネットでも今欲しい!ってものが翌日に届いたりするし、コンビニなんかも取扱ジャンルがすごい多い。

先日立ち寄ったローソンには、ペット用品専門店でしか見かけないようなコアな犬用おやつが置いてあってびっくりしたくらい。

どこでもなんでも買えちゃうな~みたいなのが最近の当たり前だな~と思うんですよね。

そんななかで、私も今まではその時いちばん身近にあるところで適当に買い物をしてたんですけど、家を買うとそうも言ってらんねーなと思うわけです。

どういうことかっていうと、今でこそ利便性の良い周辺エリアなんですが、その地域が20年前くらいには「え…!? うそ、●●に家買ったの!?」ってビックリされる程度の地域だったことを私は覚えてるんですよね。

で、その頃を知ってる人同士だと、「●●地域って、めちゃくちゃ発展したよね~」なんて言い合うわけ。あんなお店なかったよね、●●にこんな店できててびっくりしちゃった~とか。そういう懐古トークがあるんですよ。

ただこれ、懐かしみつつ今を謳歌できるだけならいいんですけど、反対に廃れていく可能性だってなきにしもあらずなのが怖いところなんですよね。

何事にも絶対なんてないので………………。

となると、いち消費者であり、この地域の「住民」となった私が何を考えないといけないかって、どの店に末永く残ってほしいか、ってこと。

そんなわけで、地元の八百屋や魚屋やスーパーへ通う日々を送っています。

あとネット通販もなるべく日本企業のヨドバシや楽天、hontoで買ったりね…。(これは前からそうしてたけど)

ただ生きていくというだけじゃなくて、「何とともに生きるか」のフェーズにきたんだな、ってちょっとガツンときましたね。

家を買って、「地元」とどう寄り添っていくかの意識が自分の中でちょっと変わったな、と思ったはなしでした。

 

そして来月の目標は地域の寄り合いでやってる「朝の地域掃除に混ざる」です。

がんばろ。

応援よろしくおねがいします。

読書体験についてのmurmur

「読書」が健常者の特権性であると射抜いた市川さんのコメントをニュースで見て以来、その鋭さがずっと胸に突き刺さって抜けないままでいる。

mainichi.jp

だって、まさしくその通りであると思う。

本屋で本を買う。

それも健常者であれば、街中の小さな書店にふらりと立ち寄って、狭い店内を歩き回って、棚の上にある本、下にある本、あちこちにある本を取ってパラッとめくって、また棚に戻して、小さい文字も大きな文字も、難なく読解して選んで、小銭やお札をスムーズに取り出したりして購入することができる。

まずこのハードルを越えられないならば、大型の書店へ足を運ぶ必要がある。

あるいは、自分のハードルを越えられるパソコンなりのデバイスを用意して、選んで決済して、届けられた本を受け取って開梱する必要がある。

そんなふうに健常者なりに想像力の限界まで考えてみて、本を手に取るまでにも息切れしそうなステップを強いられているが、これでまだ「読書」には至っていないのだから頭を抱えて蹲ってしまいそうだ。

さらに、彼女は言う。

 <厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた>

たとえば私には、通学の電車の中で小説に夢中になって、降りる駅を過ぎてしまったなんて経験がある。

けれどこれは、同じ体勢で苦もなく本を持ち続け、文字に没頭し続けられるからこそできた経験だった、ということだろう。

こうして想像力の限界に挑んだあと、わたしは単純にまず「電子書籍より紙書籍のほうがいいんだよな~」なんて嘆いていた自分を少しばかり恥じた。

そして、こうして恥じるという咄嗟の感情についても、いまだ自問し続けている。

現状のわたしの考えとしては、紙書籍を好きでいる、ということにネガティブである必要はないと思う。けれど、電子書籍を否定したり紙書籍と比較して優位性を示すことは、電子書籍のユーザビリティの高さによって「読書体験を得ることができた」人たちへの差別へ容易に繋がるんじゃないかな、と思っている。

ここを切り分けて語ることが必要なんじゃないかな、と。

そんな自問を今なお続けている。

 

それから論点は少しズレるかもしれないけど、

「読書ができる=学力や知識の向上が容易」

というのは間違いなくあると思っている。教科書も参考書も辞書も本であることがほとんどだし、それらに向き合い続けられる状況があるというのもまた、健常者の優位性だろうと思う。

それに、たとえば勉強って日常の中で、「勉強のためだけの時間」を捻出できる人のものであるな、とも最近感じている。

私は社会人になってから大学を受験すると決め、通信講座で1日2時間程度の勉強していたのだけど、これが多いか少ないかは別として、1日2時間を確保することすらギリギリだった。

それに、この2時間にしても「いいよ、いまは勉強してて」と「許された」時間も含めてのことだ。

運が良かったなあ、と当時から最近までただ純粋に思っていたのだけど、市川さんのコメントを受けてから、一つずつそういったことにも目が向くようになってきた。

たとえば一日に何十時間もの時間を確保し、塾へ通うお金があり、衣食住に困らないという誰かと私を比べれば、どちらが優位で勉強時間を確保できるかは一目瞭然だろう。一方で、2時間を確保できたり、通信講座のお金を捻出できた私と、大学受験すら不可能だった人ともまた違う。

 

近ごろ、弱い立場の人をただ切り捨てればいいなんて言説が著名人から飛び出したりして驚くことも多い。

たとえば福祉がしっかりしていて、体の状態や環境に関わらず、学ぶことが制限されない社会であれば、あのような優位性への怒りのこもったコメントなど出なかったんじゃないか、とも思う。(もちろん勝手な想像だ)それに、豊かな社会保障や福祉によって衣食住の確保や学びへの間口を広げることが、より多くの成功者を生み出すことは明らかなのだし。

なにより、優位性のある人々だけでは、その特権を意識する/想像するにも限界がある。そういう人たちで決定権を独占されるという状況は、とても健全な社会とはいえないんじゃないかな。

そのうえで、そういった社会保障等の充実した社会こそが、人間がこれまでの歴史上で獲得した、その他の弱者を切り捨てながら生きている生物とは明確に違う、唯一の進化を遂げた姿なのでは、とも考える。

 

いま私が得ている「この体験」は、果たして優位性によるものなのか。あるいは、わたしもまた怒りの矛先も知らないまま踏みつけられているのか。

ひとつひとつ、考えながら生きている。そんな近ごろのこと。

 

これは気になっている本

honto.jp

うっすらとまるい【カナダ滞在の思い出】

カナダに滞在したのは夏の1ヶ月ちょっとだった。

あちこちの公園は短い夏を謳歌するためにと、日光浴をする人たちでごった返していた。

私が居たのはカルガリーで、8月だというのに、2週間ほどで夏が終わって雪がチラつき始めたのはまあまあ衝撃的。

滞在先としていたお宅のホストマザーは、せっせと暖炉の準備をしていたし、「暖炉に火をくべる」という経験をしたのも、庭先にトナカイ(だったと思う)がやってくるなんていうのも初めて遭遇することだった。

 

ただそんな衝撃の多かったカナダで、最も記憶に残っているのは移動遊園地でのこと。

ちょっとした小高い丘の広場に移動遊園地がきたからって、みんなで遊びに行った。

アトラクションも色々とあって、その中で人気のあるうちのひとつが観覧車だった。

ドラマなんかで見る、爆速で回転する小さな観覧車ってわかるだろうか。

日本のように箱体に乗り込み、ゆっくりと回転するやつじゃなくて、二人がけのベンチが20席ほど付いてるだけのやつ。

アレに乗って、足をブラブラとさせながら、舌の色が変わるほど真っ青な綿菓子を食べていた。

それで、あの観覧車って回るスピードも早いから、何回もグルグル回って頂上と地上を行ったり来たりするんだよね。

そうするうちにも綿菓子を食べ終えちゃって、いつ終わるんだろうね~、なんて一緒に乗った子と喋ってるうちに、ようやく景色にも目を向けた。

そしたら、すっっっっっっごい遠くまで地平線が続いてて、当たり前なんだけど、めちゃくちゃびっくりした。

カルガリーって、カナダの真ん中あたりにあるんだよね。

だから、どこまでも広い地平線が終わりもなく遠くまで見渡せて、その向こうに霞んでぼやけるロッキー山脈がスイーっと横たわっていた。

私は大阪生まれ大阪住みなので、こういう広い平野というのにまるで縁がない。

北海道に行ったときも驚いたけど、カルガリーのこのしょぼい高速観覧車から見た景色は更に圧倒的だった。

 

とにかく地平が広くて広くて、それからうっすらと丸かった。

 

え、地球ってマジで丸いじゃん。

そんなことをグラグラしそうな衝撃でもって感じたのをはっきりと覚えている。

当たり前のことを「わかる」っていう感覚は、これが初めてだったと思う。

地球が丸いっていうのは知ってるけど、私は宇宙飛行士でもないので、実際にその丸い地球っていうのは見たことがない。

だから、うっすらとした丸さを見たのも、このときが初めてだったし、その丸みがずーっと続いて球体になってるんだ、と明確に想像できたのもこの時が初めてのことだった。

 

まるいんだ…。地球。

 

そんな衝撃を受けたカナダの滞在から、もう何年も経った。

私は今でもたまに、ふと「丸さ」の上で生きてるんだ…、と思い出すことがある。

 

私も誰しも、生まれて死ぬまで丸みのうえに立っている。不思議。