いつも前のめり

好きなことを好きなだけ

読書体験についてのmurmur

「読書」が健常者の特権性であると射抜いた市川さんのコメントをニュースで見て以来、その鋭さがずっと胸に突き刺さって抜けないままでいる。

mainichi.jp

だって、まさしくその通りであると思う。

本屋で本を買う。

それも健常者であれば、街中の小さな書店にふらりと立ち寄って、狭い店内を歩き回って、棚の上にある本、下にある本、あちこちにある本を取ってパラッとめくって、また棚に戻して、小さい文字も大きな文字も、難なく読解して選んで、小銭やお札をスムーズに取り出したりして購入することができる。

まずこのハードルを越えられないならば、大型の書店へ足を運ぶ必要がある。

あるいは、自分のハードルを越えられるパソコンなりのデバイスを用意して、選んで決済して、届けられた本を受け取って開梱する必要がある。

そんなふうに健常者なりに想像力の限界まで考えてみて、本を手に取るまでにも息切れしそうなステップを強いられているが、これでまだ「読書」には至っていないのだから頭を抱えて蹲ってしまいそうだ。

さらに、彼女は言う。

 <厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた>

たとえば私には、通学の電車の中で小説に夢中になって、降りる駅を過ぎてしまったなんて経験がある。

けれどこれは、同じ体勢で苦もなく本を持ち続け、文字に没頭し続けられるからこそできた経験だった、ということだろう。

こうして想像力の限界に挑んだあと、わたしは単純にまず「電子書籍より紙書籍のほうがいいんだよな~」なんて嘆いていた自分を少しばかり恥じた。

そして、こうして恥じるという咄嗟の感情についても、いまだ自問し続けている。

現状のわたしの考えとしては、紙書籍を好きでいる、ということにネガティブである必要はないと思う。けれど、電子書籍を否定したり紙書籍と比較して優位性を示すことは、電子書籍のユーザビリティの高さによって「読書体験を得ることができた」人たちへの差別へ容易に繋がるんじゃないかな、と思っている。

ここを切り分けて語ることが必要なんじゃないかな、と。

そんな自問を今なお続けている。

 

それから論点は少しズレるかもしれないけど、

「読書ができる=学力や知識の向上が容易」

というのは間違いなくあると思っている。教科書も参考書も辞書も本であることがほとんどだし、それらに向き合い続けられる状況があるというのもまた、健常者の優位性だろうと思う。

それに、たとえば勉強って日常の中で、「勉強のためだけの時間」を捻出できる人のものであるな、とも最近感じている。

私は社会人になってから大学を受験すると決め、通信講座で1日2時間程度の勉強していたのだけど、これが多いか少ないかは別として、1日2時間を確保することすらギリギリだった。

それに、この2時間にしても「いいよ、いまは勉強してて」と「許された」時間も含めてのことだ。

運が良かったなあ、と当時から最近までただ純粋に思っていたのだけど、市川さんのコメントを受けてから、一つずつそういったことにも目が向くようになってきた。

たとえば一日に何十時間もの時間を確保し、塾へ通うお金があり、衣食住に困らないという誰かと私を比べれば、どちらが優位で勉強時間を確保できるかは一目瞭然だろう。一方で、2時間を確保できたり、通信講座のお金を捻出できた私と、大学受験すら不可能だった人ともまた違う。

 

近ごろ、弱い立場の人をただ切り捨てればいいなんて言説が著名人から飛び出したりして驚くことも多い。

たとえば福祉がしっかりしていて、体の状態や環境に関わらず、学ぶことが制限されない社会であれば、あのような優位性への怒りのこもったコメントなど出なかったんじゃないか、とも思う。(もちろん勝手な想像だ)それに、豊かな社会保障や福祉によって衣食住の確保や学びへの間口を広げることが、より多くの成功者を生み出すことは明らかなのだし。

なにより、優位性のある人々だけでは、その特権を意識する/想像するにも限界がある。そういう人たちで決定権を独占されるという状況は、とても健全な社会とはいえないんじゃないかな。

そのうえで、そういった社会保障等の充実した社会こそが、人間がこれまでの歴史上で獲得した、その他の弱者を切り捨てながら生きている生物とは明確に違う、唯一の進化を遂げた姿なのでは、とも考える。

 

いま私が得ている「この体験」は、果たして優位性によるものなのか。あるいは、わたしもまた怒りの矛先も知らないまま踏みつけられているのか。

ひとつひとつ、考えながら生きている。そんな近ごろのこと。

 

これは気になっている本

honto.jp