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暁を手向けに:後編 【メサイア トワイライト 黄昏の荒野ネタバレ感想】

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まさかの感想文が前後編という事態に…。

いやほんとすいません…あと感想文へのご感想などを最近ツイッターでいただくのですが、恐縮しつつも「わかる〜〜」と言ってもらえると、ほんと感情のシェアができてハチャメチャに嬉しいです。

他にも私の感想を読んで「私はそうじゃなくて、こう思った」という話を聞けるのもほんと楽しくて仕方ないんですよね。なんかそういうの凄いメサイアっぽい~~って一人でエモくなっています!(メサイアとは)

ありがとうございます!

どこまで楽しませてくれるんだ、メサイアコンテンツ!!大好き!

 

というわけで、「メサイア 黄昏の荒野」感想:前編で書いた「サリュート」と「スーク」以外の書ききれなかった部分を後編にまとめました!

よろしければお付き合いください😌

 

 

前編はコチラ▼

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CAUTION!

この記事は、「MESSIAH トワイライト 黄昏の荒野」を観劇したオタクがネタバレに配慮せず書いています。

いち個人が「こんなふうに思ったんだよね〜」と吐露するように書いている、あくまで感想文です。こうだったからこうかなって思った程度のやつなので、辻褄合わせや考察等の凄いやつではないです。基本的には感情のみで書いていますので、ご了承ください。

ちなみに目次からネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

  

人が人を救うということ

メサイア トワイライトは、「月詠の続きである」という感覚がすごく強かった気がします。間に幻夜もあったんですが、あれはどちらかと言うと、加々美のサクラ(または有賀のメサイア)としての生き方に焦点を当てた密室劇でしたし、「月詠の続き」というよりは、サイドストーリーの印象が強いんですよね。

一方でメサイア トワイライトには、御池万夜や園之人、穂波葉礼、及川昴など、月詠でのキーパーソンが勢揃いだったこともあり、より一層「月詠という脚本からの地続き」であることを意識して観ていました。

その中で、やはり月詠の「生きる、死ぬ、たった一人の神になる」というキャッチコピーが内包するテーマ性も、まさしく匂い立つように感じました。しかも、黄昏の「何のために生きるのか」と終始問いかけてくる脚本との親和性は、めちゃくちゃ高かったように思います。

だからこそというのか。

激流のように結末へと展開していくサリュートの生き様のその足元で、じわじわと染み入るような「命の使い方」を問う不穏さが、あとから凄くキツかったです。

いやほんと、黄昏のあとアンパンマンマーチで泣くからな…勘弁してくれよな……
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穂波葉礼は救いたい

穂波、髪の毛、黒い!!って思いました、まず。

あの白く抜けてたのはミコトノリのせいなのかなー?ってことは、一般人になったのかな!? よかったなーー穂波〜〜〜^ー^おじさんハチャメチャHAPPY~~!!

 

って思った気持ち返してほしいんだな……。

「どうして誰一人救えない」と吐き出す穂波は、未だに「万夜ではない神さま」のままなのかぁとひたすら辛かったです。

メサイアという話は、限りなく「人」のための話だと思っているんですよね(登場人物の宗教観がどうという話ではなく)。なんかこう、人が人とどう関わってどう生きるのか、何を思うのか、何を成すのか、何を捨てるのか、みたいな。神様にお祈りするんじゃなくて、あくまでも「人」だけが登場する現実世界というか……。

そして、その仕組みを極限にまで研ぎ澄ませるのが、そんな世界での神様の存在=メサイアかなと思うんです。しかもそのシステムは、この世でたった一人の、唯一無二の存在だけにしか機能しないという、とんでもねえやつ(柚木にとっての御池、御池にとっての柚木のように)じゃないですか。

「神なんてもの、この世のどこにもいない」という及川に、「いるさ、少なくとも俺たちには」と”メサイア”を指して言い切った加々美。この二人のやりとりとか、ほんとシンプルにこの世界を表してるなあって思います。

そしてそんな世界の中に放り込まれた”神様”って、どうしたってまがい物になってしまうんですよね……。

そんなまがい物の神様の中でも、力を発揮して、崇拝を集めた御池万夜の居なくなった後にも、彼自身すらそれを自覚しながら「神様のふり」をしていた穂波葉礼。その在り方はどうあれ、彼の神様としての自意識は間違いなく人を救いたいというところにあったんだろうなぁというのは、月詠を観て思ったわけなんですけども。

そんな彼が、神様をやってた時の能力を持ったまま、只人になって登場するなんて、ほんと恐ろしすぎません?

メサイアという世界観の中で、彼は神様にはなれないわけですよ。

そして、彼自身も「神様になりたい」と望んでいるわけではなく、ただ神様(メサイア)の持つ特権ともいえるだろう「人を救う」という一点にのみ執着してその命を燃やしてるわけです。

しかも、やっぱりというか、当たり前に誰も彼のメサイアではないので、「穂波に」救われたいと思う人は居ないんですよね……。彼はまさしく、誰の神様(救世主)にもなれないわけです。

いや待って〜〜〜ってなるじゃないですか。なったんですよね。

だってそんなの、穂波が穂波である限り、彼の願いは叶わないってことじゃないですか?

例えば彼がこの苦しみから抜けるために、誰かを救うということを諦めてしまうなら、それは果たして穂波葉礼か? ってなるじゃないですか。なら、誰かを救うことが彼のアイデンティティを守る唯一の方法だと思うんですけど、その苦しみを誰よりも理解してくれる万夜は、それこそ彼が小太郎と有る限り、絶対に穂波に手をかける事は有り得ないって見せられてしまったわけですし……。

つまり、穂波が万夜を救いたいと願って命を差し出しても、絶対に万夜は穂波に救われることはなくて、その時点で穂波は一人、救える可能性を持つ相手を失うんですよね。

というかそもそも、彼自身が、死にたいわけでも苦しみから逃れたいわけでもない、ってのが穂波苦しいポイントだなって思います。

ただ救いたいけれど、誰かを救うためには苦しんでいる人が必要だ、場合によってはその生命すら対価となる、というなんともこれってという状況。穂波マジで自分で自分の首を絞めすぎている……。

しかも及川昴を自分の手で生き地獄に突き落としたと知ってしまった今、彼が及川昴を救える方法ってなんだろうと、そんなことを考えてしまいます。

ただ救いたかっただけで地獄に落としたわけではないと、弁明する機会はあるんだろうか、とか。「穂波」こそが救ってくれると信じていたと言った及川を救ったものの、すでに自分は彼にとっての神様ではなくなっていたことをどう思うんだろう、とか。そもそも、誰かを救うということ自体が、なかなかに傲慢な神様の言い分ではないのか? とか。

「この生き地獄の何が助けたっていうんだ、この期に及んでまだ教祖気取りか?」という及川のセリフは、まさにそれを言い当ててるなぁ、と思いました。

 苦しむ人を救いたいけれど、救うためには苦しんでいる人が必要だという、穂波葉礼という神様になろうとした人の願いは、めちゃめちゃにメサイアらしい二律背反的苦悩だなぁと思います。

 

 

御池万夜は救われたのか

実際、隣に柚木のいない万夜を観るの、めちゃくちゃキツくなかったですか…? あとほんと、黒子サンの前置きより先に、万夜が板の上に現れただけで「あの中に…柚木が……小太郎が……」ってなる思考回路、マジで月詠の後遺症は永遠なんだなと思いました。

古傷がうずくってこのこと…? 疼きにしてはあまりにも痛いんですが……先生、どうにかなりませんかね……。

あと百瀬係長代理日誌も読んだんですけど、E12発令が小太郎の命日だったとしたら、最後の○月17日までおよそ48日。120日周期で体が入れ替わると万夜が以前に言ってたことを考えると、小太郎の内臓を受け入れたものの、彼の中でその存在は間違いなく物質的に薄れていってるんだよなぁと実感してしまいました。(っていうか、Rはレネのことだと思うんですけど、48日目に彼の準備が整って、同じ日に万夜の復帰プログラムが開始して、翌日の、つまり小太郎の命日から四十九日目に二人が出会ってたとしたらメチャクチャ無理なんですけど???ってなりました)

いやつらすぎる…。

ところで、月詠のラストで万夜を自分一人の神様(=メサイア/救い主)に仕立て上げた小太郎ですけども、一方で小太郎は万夜にとっての神様であり続けたのかどうかがとっても気になります。そこら辺はもちろん、万夜のみぞ知るというところだと思うんですが。

ただ、いずれにしても小太郎はすでにこの世にはなく、そんな世界でも万夜はその他大勢の神様であることをやめて、たった一人のための神様(メサイア)になったので、肉体的にも精神的にも「人」として生き続けないといけないんですよね。ただ一人、柚木小太郎に対して以外は。

レネが彼のことを、「棺桶に片足突っ込んでるように見える」と称してましたが、ほんとまさしくそうなんだろうなぁ。生きる目的が感じられないんですよね。生かすためだけに生き続けなきゃいけないというか。未だに彼の生きる目的が「柚木小太郎」なことが、なんとも辛いんですよね……。

何しろ、小太郎に対しての唯一の神になったうえに、その小太郎が自分の中にあるということは、それってつまり、四六時中、彼のメサイアとして機能し続けなければならない、ということにもなりません???

月詠で小太郎が最期に「月と太陽は一つになる」と言っていたように、そのものずばり身一つになった二人は、さながら日食のようだなぁと思います。

どちらがどちらを食い潰しているのかわからないんですけど、まさしくずっとメサイアとして有り続けなければならないって、え、こっっっっわ!ってなりました。

月詠を経て、万夜は万人の神であることから逃れ、肉体的にも凡人としての生を手に入れたわけですけど、その一方で人間やめちゃった感あるな、とも思ってしまいました。

それって救われたっていうんだろうか。

小太郎が遺したものってなんなんだろう……。

ただ少なくとも、「死なずに生きていく」ことは確実なわけですから、そこに未来はあるわけですよね。生きてるだけで丸儲けということもあるしさ……、新たなメサイアも充てがわれたし、その中で万夜にさらなる救いがあればいいなぁと思います。

他に彼を救える人はもう居ないので。

それにしても、万夜にとっての「生きること」が「戦い続けなきゃいけない」ことというのがなかなかにしんどいです。現場からは以上です。

 

 

園之人の不純

なるほどね〜〜〜〜〜〜!!!!ってなりました。

園之人ってほんと謎だらけで、その謎はまだまだ解決してないんですけど、少なくともナイトメアの理由はわかったので良かったです。

「君が考えるように、北方にフォークス機関という歪みは必要ない」

というセリフと、公安に情報を流していた(加々美含め)、という情報のおかげで月詠からの謎の行動がある程度解決できたのはほんとよかった。

そもそも、ヤマシロと園の関係ってマジでなんなんだ?ってなってたんですけど、フォークス機関を潰すという点で協力関係だったのか〜と納得です。まあ、有賀拉致に関しては謎のままなんですけど。(拉致というか、有賀が協力した理由?っていうか…)

それでもある程度の、園のユランとしての肩書は説明されていてよかったです。

一方で、ですよ。

園之人という人物としての行動は未だ謎だらけで、彼の真意は探りきれません。月詠でも黄昏でも、どういうわけか雛森にトドメを刺さないんですよね……。それがメサイアとしてなのか、何なのか……。

憎んでいると言うわりに、どういうことなの……。「お前を簡単に死なせるつもりはない」という言葉をそのままに受け取って、ほんとに簡単に殺してたまるかってぐらいまで憎しみ抜いてるのかなぁ。

なんでも、メサイア以上の絆だったらしいですし。

もしそうだったとしたら、園を助けられなかった事実を受け止め、小暮だけでも救いたいとした雛森は園を過去へ置き去りにしたまま、すでに前へ歩み始めていることになるんですけど、それって……。

園之人もほんと救われてほしいんだよなぁ。一度は間違いなく救われなかった人なので。メサイアを持ちながら、そのメサイアに救われることのなかったサクラの末路ともいえる彼が、なんとも切ないんですよね……。

 

 

 

メサイアシステムについて

初めて私がメサイアを観たのは暁乃刻でした。まぁそれもDVDでだったんですけど、それはこのブログの最初の記事を観ていただくとして、その時に持っていた事前情報って「メサイアとは舞台作品である」「杉江くんが出ている」しかなかったんですよね。

なので観始めて、いきなりコート着た人が戦いだして、まぁビビった。え!戦うやつなんだ!しかも日本なのか!そしてバディものか!?ってなった。その直後。OPが始まる時に鉄の掟が流れて、その内容にもうゴリゴリにビビり倒しました。

さらには、暁の次に深紅を観たんですけど、その冒頭でいきなり有賀と加々美が呼び出されて、じゃあ今日からメサイアなんで、みたいな、ほぼ辞令って感じでメサイアを組み始めて腰を抜かしました。

「メサイアって運命的なものじゃないの!?それは後付……!????っていうか、メサイアってもうほんと、そういう仕組み(システム)なんだ!?????」

ってなりました。

まぁ、一嶋さんいわく何かしらの因縁あってのメサイアだし、それぞれに運命的な関係を築いていくわけですけど、客観的に見てみれば、あくまでそういう「システム」でしかないじゃないですか。

それってめちゃくちゃ怖いなぁと思いました。

そしてこの黄昏を見て、今まで以上にこのシステムの恐ろしさを実感した気がします。

というのも、これまではサクラを中心に見ていたのでそこまで意識しなかったんですが、ボスホートの人たちって普通に家族居るんですよね。まぁサリュートやガラを思うと一概には言えないんですが、サクラである条件みたいに必ずしも「孤独」は必要ないわけですよ。それを意識し始めた時に、百瀬係長代理日誌を読んで彼の戸籍がないことも改めて目の辺りにして、「うわ〜〜〜」って発狂しかけました。

サクラってめちゃくちゃ孤独なんですよね……。

そしてそんな孤独な人間に「守るべき人間」をあてがうの、端的に言ってヤバイしかないんですわ……。メサイア以外には何もない、っていう状況の人間をいつ死ぬとも知れない世界に放り出すの、ほんと気が狂ってるとしか思えない。

しかも私たちはこの仕組みが如何に運命的な二人を生み出し続けているかを観ているわけで、マジでその恐ろしさに身が竦みます。

守るべき人間がいると、人は強くなれるとはよく言いますし、実際あると思いますし、数多くの物語でも描かれてきた題材かと思います。けれども、その存在を自分で獲得するのではなく(結果としてそうなる場合は別として)、作業的に充てがう、という発想がマジで狂っている……。

さすが、戦時下(情報戦争)だけあるなって、改めて思いました。

 

 

雛森千寿と小暮旬

「こんな僕にでも死ぬなと言ってくれた人がいるから」だけを信じて黎明を待ちます。もう他にはなにもない……。なにもないんだよ……。

 

 

杉浦レネ、または、御池万夜のメサイア

まさかのキューバ*日本ハーフだった。(まぁ確かにしょーりくん、ハーフっぽいと思ってしまった)

あと劇中で、めちゃめちゃ「キューバ」って言うじゃん!ってなりました。そして挙句の果てには「日本がどうなろうと何の感慨もない」とか言い出して、その理想をガラにすら一蹴されるの、ビックリしすぎて、いやほんと腰抜かすところでした。

そんなサクラ候補生いるんだ〜〜???って何もかもが異例中の異例って感じでした。

更には、家族が十三人もいて、アメリカの工作員をやってたことがあって、今はサクラ候補生って、なんだこいつは、ってなりました。サクラって孤独でなければなれないと思ってましたし、何より戸籍抹消されるはずでは?という。まぁ家族がいても、戸籍が抹消されているならOKなのか……?にしても、公安なんてアメリカ元工作員がなれるものなのか?っていう疑問は消えません。不穏だ……。あんなにあけすけでネアカを絵に描いたみたいなやつなのに、その背景だけがめちゃくちゃ不穏だ……。勘弁してくれ。

しかもそんな、家族は13人いまーす!なんか国とかどうでもよくて、みんなHAPPY~!ってほうがいいと思いまーす!!っていう根っからの陽の男が、家族って知ってますか?から始まりそうな万夜のメサイアって度肝を抜かれる……。

 

でも、その背景以外のことでいえば、なんかもうレネのことはぷりきゅあぐらいに思っているので、小太郎と一身になった万夜とて、そっくりそのまま棺桶から引っ張り出せそうな安心感はうっすらあるんですよね。

ありますよね!???

そうなるんですよね????!!!!!!

頼むよマジで!!!!!!!もうこれ以上塩はいらない〜〜〜〜〜たのむ〜〜〜〜〜〜幸せにしてやってくれ〜〜〜〜助けてぷいきゅあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜がんばえ〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

とはいえ、キューバ出身ってメチャクチャ不穏じゃないですか?

あの世界のキューバ情勢がどうなってるのか知らないんですけど、今回でいきなり北方以外の諸外国が突然顔をのぞかせたので、その立ち位置はものすごく気になっています。

もしも、こちらの世界と似通った情勢であるならば、そもそもキューバ出身の人間がアメリカの工作員をしていたというのも凄く興味深いです。なおかつ、サクラの前提条件をレネ自身もクリアしているとなると、少なからず身分を抹消されるような状況にあるというのは 、今後の展開に大きく影響していくんだろうなあと思わせます。

更には、武力戦争をしても良いという建前は整ってしまったわけですし。

そうなってくると、北方、アメリカはそれぞれを仮想敵国としているんだろうと思うんですが、キューバは果たしてあの世界で北方側にいるんだろうか?というのは知りたいところ……。そうなった場合に、「家族が居る」というのが、レネにとっての足枷にならないだろうか、と懸念すべき要素ばかりが膨らみます。

まさかそうなった時に、家族と万夜とを天秤にかけるような事態にはならないだろうな……。

昔の相棒以上に必要な男になるんでしょ……。ガラに大見得切ったみたいに、国も何も関係なく、万夜を守れる、そして万夜に守られるような男を見せてくれよな……。

 

 

そして一方で万夜なんですが、彼の「メサイアが必要」だという血を吐くみたいなアレ。聞いたときはほんとすんげぇ虚脱感に襲われました。なんて悲しい生き方を強いられているんだ〜ってなりました。

そしてその発言の意味するところとは、彼がメサイアを必要とする=小太郎をシステム上とはいえもうメサイアではなくなったと認める、みたいな、まぁ極論を強いるようなところにも行き着くんだよなぁと思うと、マジで頭抱える案件ですよね……。

小太郎を守るためにはメサイアが必要で、メサイアを必要とすると小太郎をすでにメサイアでなくなったと認める、まさに「メサイア」の二律背反だ〜〜ってなりました。

だからこそ、レネには小太郎ごと万夜を認めるような、圧倒的な陽の男を期待してしまうんですよね。二番目の男って、加々美のときにも思いましたけど、ほんっっっときっついなぁ……。

でもまぁ、レネはぷいきゅあなので……大丈夫……。

がんばえ〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

ヤマシロという男が言うところには

ヤマシロめちゃくちゃ好きなので、黄昏でもヤマシロの話するんですけど。

といっても、黄昏ってヤマシロの気配メチャクチャしませんでした??

「悪夢は覚めず」ってすごいそのままでビックリでした。今回のメサトワにてフォークス機関は事実上壊滅したわけですけど、そのフォークス機関こそがヤマシロという男を生み出したんですよね。それを思うと、フォークス機関の緩やかな自殺の話だったようにも思えるなぁ。

かつて人体実験により人ではなくなり、悪夢と成り果てた男の引いた引き金が、巡り巡って脳天をぶち抜く話だった。

そこには加々美やサリュートやスーク、リュカや黒坂以外にもたくさんの人が巻き込まれていて、そうして終幕に見えた悪夢も、まだまだ朝は遠く黎明には及ばないの、うわ〜〜〜ってなっちゃうんですよね。

「悪夢は覚めず」

っていうこのセリフは本当に呪いのようだなぁと思いました。

それも、人体実験の末に超人化してしまった工作員の言葉としてではなく、愛する娘を殺されて堕ちた本当の地獄のまたその先で苦しみもがく男が遺した呪詛だよなぁ、と。

そういう普通の人たちから生まれる呪いが、今後、武力戦争に突入してしまうともっと増えていくんだろうと思うと、まだまだこの悪夢は続きそうだという嫌な予感しかしてきません。

例えばその呪いは第二のヤマシロを生むかも知れないし、または間宮のような男を生むのかも知れないし。または、シンのような男かもしれないし。

そういう悪夢が、ワールドリフォーミングのない世界には、もっと満ち溢れるんだという宣言にも思えて、ヤマシロって今なおほんと恐ろしい男だなぁと思いました。

 

 

 

サクラは敗北したのか

どうなんだろう。

黎明のおそらく肝になってくるだろうところかと思うんです、サクラの存在意義って。そもそも、情報戦争において有効な少数精鋭の公安部隊なのであって、鉄と火力で圧倒する武力戦争においては如何ほどにその能力を発揮できるんだろう? という疑問があります。

もちろんそれは運用方法次第だというのは分かりますが、開戦時ならともかく、以降にもそれほど活躍できるもんなのだろうか……。

まぁ悠里淮斗はイケルと思うんですけど。それ以外はどうなんだ????

まずもって、ワールドリフォーミングの存在した世界に、武力戦争をするための世界協定ってあるんでしょうか? かつての協定は有効なのかな……。

というか、活躍できるかどうかを差し置いて、まず解散してしまってるので、勝敗もあったもんじゃないんですよね。そして、サクラが解散してしまった場合の「メサイア」の存在意義ってどうなるんだろう?

戸籍を抹消されて、孤独に置かれた人間に割り当てられたメサイアシステムは、サクラ合ってのものじゃないですか。そんな大前提が存在しなくなったいま、「メサイアシステム」すら無くなってしまうんじゃないかと思うんですよね。

そうなった場合、すでにメサイアを構築できている人たちはまぁそれなりにやると思うんですけど、レネ〜〜〜〜〜〜〜〜万夜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!ってなっています。

よしなに……よしなに頼む……。

たのむよ……、此処は寒い、寒すぎる……。

 

 

 

 

 

MESSIAH

これは黄昏の荒野にあてた感想というよりは、MESSIAHという作品に対する想いです。

私は前述の通り、去年の3月23日に暁乃刻を初めてDVDで鑑賞しました。それからどっぷりメサイアシリーズにハマって、ほんと大好きになりました。

今までこんなに書いたこと無いぐらいブログも書いたし、いろんな人にも勧めて一緒に楽しませてもらっています。

メサイアってほんと楽しくて、間違いなく私の人生に残る作品になりました。そして出会う前と出会った後では、自分でも自分が変わったなーって思います。

それは作品から受け取るメッセージしかり、作品に携わる色んな方々のインタビューやお話を聞き、さらにはメサイアを好きな人たちと関わることができたからだと思っています。

何より一番自分の考え方が変わったなと思うのは、「許容する」という感覚を持てたことです。自分語りになりますが、私はかなり視野の狭い頑固者で、おまけに固定概念がめちゃくちゃ強いオタクでした。おそらく今もそうなんですが、かつての自分よりは「納得できない部分を許容する」感覚を持てた気がします。

それは、例えば自分と違う見方をしている方の感想を観た時に、今までだったら「いやこれはこうだろ!!!」と否定してしまう自分がいました。

または、自分の中で生まれた「こうかな?いや、やっぱりこうかも」みたいな感想を、とにかく突き詰めて、どちらかの答えに納得いくまで考え続けないと気がすまない性分だったんですね。

それが、メサイアという作品はほんとに不思議なのですが、「なるほど、そういう観方もあるのか〜!」とか「こうかも?いやこうかも……もう一回観てみよ……えっ、全然さっきまで思ってたのと違って、こうもとれる!!」と、他者であれ、自分であれ、色んな意見を受け入れることができるんですよね。

これってほんと、私にとっては衝撃的なことでした。

まさに自分革命です。

前の自分が間違っていたとは決して言いたくないんですが、前の自分よりは今の自分の方が好きで、そして、こう変われたのは間違いなく「メサイア」という作品の、「許容する」懐の深さのおかげだなぁと勝手に思っています。

そして、何度観ても新しい見方ができて、新しい感想を持てて、昨日の自分とすら意見を交わしあえる環境も与えてくれるところが、本当に素晴らしい作品だなと感じます。

だからこそ、色んな人にもっと観てもらいたいし、私ももっと観続けたい作品でもあります。そういう作品に人生で出会えることって本当に奇跡のようなことだし、いつだって「もっと早くから観たかった」と思うんですが、今こうして感想をブログに書けたり、いろんな人と意見や感想を言い合える環境を持てたことに、まず何よりも感謝しかありません。

 

本当に、この作品に出会えて嬉しいです。

 

ここまで読んでいただき、有難うございました。